神棚の処分方法を検索してみた その2

はじめに

実は前回、神棚の処分について検索していて、「ホームセンターで買った神棚は、魂が入っていないのでそのまま処分しても問題ありません。」という検索結果が上位にあることに、少々驚きました。

その驚きについても書きたかったのですが、私の文章力では話が紛れてしまいそうだったので、あえて前回は触れませんでした。

しかし、やはりどうにも気になって仕方がない。理屈としては理解できるのに、なぜ心がざわつくのか。その「引っかかり」の正体について、今回はもう少し突き詰めて考えてみることにしました。

境界線を引く「理屈」

まず、私たちの心をざわつかせる「理屈」そのものを整理してみましょう。

神棚とは、家庭にお迎えした神様の小さなお社(やしろ)であり、神聖な「依り代(よりしろ)」です。そして、ホームセンターなどで購入したばかりの神棚は、まだ神様がご鎮座されていない、いわば「空のお社」の状態にあります。

ここに神様の御霊(みたま)をお招きする儀式が「御霊入れ」です。この儀式を経て、神棚は単なる「物」から、神様の御力が宿る真に神聖な「依り代」へと質的に転換します。

つまり、「魂が入っていないから問題ない」という主張は、この御霊入れという儀式の有無を絶対的な境界線と見なす、非常に分かりやすい「理屈」に基づいているのです。儀式をしていないのだから、それは境界線の手前にある「物」であり、特別な作法は不要である、と。これが、私たちの頭を納得させようとする明快な論理です。

理屈を超えた「始まりの心」

しかし、私たちの心が感じる「引っかかり」は、その明快な理屈に「待った」をかけます。
そもそも、私たちが神棚を家に迎えようと思うのは、なぜでしょうか。それは多くの場合、日々の暮らしの中に潜む、理屈では説明できない不条理な境遇や、予期せぬ災厄から、家族や自分自身を守っていただきたいという切実な願いからではないでしょうか。

この、理屈を超えた領域への祈りこそが、私たちの「初心(しょしん)」の核なのです。

それなのに、その始まりとは裏腹に、手放す時だけ「魂の有無」という合理的な理屈で割り切ろうとする、このこと自体に、そもそもズレがあるのです。
「引っかかり」の正体とは、この始まりの心と終わりの理屈の矛盾に対する、私たちの魂の抵抗だと言えるでしょう。

御霊入れという儀式は、その尊い初心を、神道の伝統に則って権威付けし、神様とのご縁をより確かなものにするための大切な作法です。しかし、たとえその権威付けが叶わなかったとしても、原点である初心そのものの価値が消えるわけではありません。

心の整理と覚悟

神棚を手放すという行為は、単なる「物の処分」ではありません。それは、神様をお祀りしようとした自らの「初心」とどう向き合うか、という「心の整理のあり方」そのものが問われる行為なのです。

だからこそ、作法を行うか否かは、「覚悟」の問題となります。
作法を行わないのであれば、神仏に頼る心を完全に捨て、自らの力のみで不条理と向き合う覚悟が要る。作法を行うのであれば、自らの弱さを認め、最後まで神様への敬意を貫く覚悟が要る。そのどちらでもない中途半端な状態こそが、「引っかかり」を生みだしているのです。

結論:「引っかかり」が教えてくれること

「ホームセンターで買った神棚は、そのまま処分しても問題ない」という主張は、物事を形式だけで捉えた「理屈の世界」の論理です。

しかし、「理屈はそうだが、引っかかる」という私たちの感情は、自らの心のあり方について、本当にそれでいいのか、と厳しい問いを突きつけられた痛みのサインです。

神棚の処分とは、単なる物の後始末ではありません。それは、自らの心を偽ることなく、神様に頼る自分なのか、頼らない自分なのか、その覚悟を問う、極めて精神的な心の整理の作法なのです。

理屈で割り切れない、この心の「引っかかり」。
それは、私たちが俗世の人間であることの証であり、その中で、自らの心に誠実であろうとする、尊い痛みに他ならないのだと思うのです。

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