佐久間象山 ときにあわば


ときにあわば

人の一生を花に喩えるなら、そこには大きく分けて二種類の美しさがあるように思う。

一つは、巡ってきた春を謳歌し、満天下に咲き誇って、嵐のような喝采の中で潔く散っていく花の生涯。自らの「時」を得て、生命を燃やし尽くす、輝かしい生の姿だ。

もう一つは、春を目前にしながら、予期せぬ霜に打たれ、あるいは開花を待たずして無情の雨に散らされる花の生涯。抱いた蕾の固いまま、その可能性を秘めて静かに土へ還っていく、悲哀を帯びた生の姿である。

成功と不遇。栄光と悲劇。果たして、真に「めでたき」花の一生とは、どちらを指すのだろうか。幕末の先覚者、佐久間象山が遺した一首の歌は、この問いに深い示唆を与えてくれる。

「ときにあわば ちるもめでたし さくらばな めずるははなの さかりのみかは」


咲き誇り、散る花の覚悟

この歌の前半、「ときにあわば、ちるもめでたし」という句には、一つ目の花の生き様が鮮烈に映し出されている。国家存亡の危機という、歴史的な「時」に遭遇したならば、この命を懸けて行動し、その結果として散ることは、何よりの名誉である──。

これは、自らの知識と才覚が時代を動かすと確信した、象山の強靭な意志そのものだ。彼は、来るべき春に咲き誇り、そして大義という嵐の中で華々しく散っていく、英雄的な生涯をこそ理想とした。その覚悟は、一点の曇りもなく、まばゆい光を放っている。人は皆、自らの花を満開に咲かせたいと願う。象山もまた、その栄光の頂を目指した一人であった。


咲かぬまま、散る花の悲哀

だが、歴史は皮肉である。彼の生涯は、彼が理想とした英雄譚とはならなかった。先進的すぎる思想は孤立を招き、ついに京の凶刃に倒れる。彼が夢見た新しい時代の「はなのさかり」を、その目で見ることはなかった。

彼の生涯は、結果として二つ目の花の姿と重なる。春の到来を誰よりも早く予感しながら、その蕾を開くことなく散っていった悲劇の生涯。この「好機至らず散る運命」にこそ、しかし、私たちの心は抗いがたく惹きつけられる。

それは、完璧な勝者よりも悲劇の英雄に心を寄せる「判官贔屓」の情であり、移ろい消えゆく不完全なものに美を見出す「もののあはれ」の心である。満開の花が放つ輝きとは質の異なる、静かで、深く、そして忘れがたい共感がそこにある。私たちは、その開かれることのなかった蕾の中に、形を取ることのなかった思いの美しさを見て、その悲しい運命ごと「愛でる」のだ。


いずれも「めでたき」花の一生

象山の歌と生涯が、時を超えて私たちの心を打つのは、彼がこの二つの花の生き様を、その一身に体現しているからに他ならない。

咲き誇り、華々しく散ることを覚悟した英雄の魂。

蕾のまま、悲劇のうちに散った先覚者の運命。

「ちるもめでたし」という言葉は、彼の意志の表明であると同時に、彼の悲劇的な運命をも含めて、後世の我々が捧げる賞賛の言葉となった。満開の栄光も、不遇の悲哀も、いずれもが等しく尊い。なぜなら、その価値は、咲いたか咲けなかったかという結果にあるのではなく、春を信じ、命を燃やそうとした、その蕾の奥にある熱量そのものによって決まるからだ。

「めでたき」とは、かくも深く、豊かな言葉であった。

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